私たちは、違っていることが正しい

ビリーフ、思い込み、価値観、観念

私は、理解されたい、という感覚が薄い
それは、大前提として「人ひとり理解するなんて不可能」と考えているからだ

私の母と私は、真逆とも言える性質で、育ててもらう過程で、たくさんの「あなたと私は違う」「どうしてあなたは私と違うの?」という言語・非言語によるメッセージを受け取ってきた

そこにあるのは、非難でも落胆でもなく、ただひたすら悲しみで、その悲しみの元凶は、母自身の「完全なる味方はいない」というビリーフに根ざしている

つまるところ、完全なる味方が欲しいという母の願いに、私が添えなかった訳だ

それゆえに私は「間違った注文品」であるような、うっすらとした場違い感と共に生きてきた

欠けているわけでも、ダメなわけでもない、一番近いのは「異質」とか「孤立」なんだけど、どうもしっくりこない

罪悪とも、申し訳無さとも異なる、その間違っちゃってそこに運ばれちゃった感は、ビリーフにもピッタリと当てはまるカテゴリがなくて「誤り」とか「間違い」というカテゴリを作りたいくらいだった

なんとなくの、その場違いな、自分のいるべきところではないところに居るような、座りの悪さ、居心地の悪さは、私の人生にずっと居座ってきた、ほんの数年前まで

もちろん幼い頃は、それが悲しく、自分の非であるように感じていたけれども、学びの初期に、割とあっさりクリアしてしまった

そのきっかけは、遺伝子を研究している方の話だった

生物が進化を続けるには、遺伝子が常に変る事が必要で
進化は「遺伝子のデタラメな変異」と、その時の環境に適した「生物の選択淘汰」による

要約すると、そんな感じ
違うのが当たり前、違うように敢えて進化しているんだよね、生物って

昨日のさとうみつろうさんのブログにもあったけれど、ソメイヨシノという桜は、全部同じDNAらしい、それは接ぎ木で増えているから、だそうだ

ソメイヨシノ自体が交配種で、染井という桜と吉野桜をかけ合わせたと、店で自慢気に語っていたお客さんの話で覚えていた

なぜそんなに鮮烈に記憶に残っているかというと、その話に感銘を受けて調べたところ、正解は、エドヒガンとオオシマサクラで、違うじゃん!と二重に衝撃を受けてしまったからだ

ということは、ソメイヨシノは人の手で作り出されて、人の手で増やされている、人が産んで、人が増やしている
ソメイヨシノ自体には、種を残す機能がないから、人が増やさなければそのまま絶滅してしまう

そして1種類のDNAしかない種だと、もしある種の病気や害虫、災害が発生した時に、一気に絶滅してしまうのだ

つまり、生物は種を残すために、それぞれが違う情報を持つ個体として存在している
それは、「自然は常に変化している」という絶対的な法則があるから

変化は予測がつかないから、同じだとそれだけ生き残る確立が少なくなる
私たちは、違っていることで生き残る戦略を持つ「ヒト」という種族なのだ

同じ個体が増えるという増え方はアメーバでなければしない
天然で交配していく限り、違う情報を持った個体が増えていく

それは、どんどん人が増えれば増えるほど、違う個体が増えていく、そしてその「違い」は「拡大していく」ということだ

私たちは、普通に生活して、普通に生きていくだけで、それぞれの情報を収集して、それぞれが全く異なる情報リソースを得る、それは人類が生き延びていくために必要なこと

そう視座を拡大したところで、私と母との違いなんて、くっそみたいなもんやな、と感じられた

私は、母と違う、それは人類が生き延びるために勝手にそうなっている
私の個体の問題でも、母の育て方の問題でもなく、ヒトの進化の法則としてそうなっている

そこに異を唱えても仕方がないのに、親が「正」で、自分は「誤」であると勝手に認識して、傷ついたのなんの言ってるんだな、と思ったところで、人と人の「差」や「違い」にとても寛容になったし、場違い上等と思えた

「違う」そうだね「違う」ね
だって、違うんだもん、それがいいとか悪いってことはなにもない
だって、宇宙の法則がそう決めたことだから

だから、理解しあうなんてこともしなくていい、違うというその前提で、歩み寄って、親切に関わっているならそれでいい

違うんだね、そうだね
そのままで、違うままで存在して大丈夫

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