最近、数人から
「自分が嫌い」
という話を伺って
あぁ、自己肯定感と
自分に対する感情って
違うもんだよね
と、ヒーリングで実感したことと
照らし合わせ納得している日々です
自己肯定感が戻っても
自分に対する感情は変わらない
ってこと、案外あるもんです
なんというか
私にとって「自分」っていうのは
好き嫌いの対象ではないのです
だって、
好き嫌いに関わらず、
ずっと一緒に居なきゃならない訳で
それは、家族や夫婦よりも
濃厚な関係な訳ですよ
濃厚どころか、同一ですもんね
切り離せないですもんね
私以外私じゃないの
そりゃそうです
親兄弟ならば縁を切れるし
夫婦なんて別れるのは簡単です
しかし自分ですよ
自分と縁を切ろうと思ったら
死ぬしかないのでしょうか
死んでも縁は切れないのでしょうか
いや、肉体を自分と捉えてる?
私たちが暗闇のような
外見が判断の要素として
意味を持たない世界に
生きていたとしたら
肉体は、アイデンティティを持つのでしょうか?
私は、何をもって
「自分」と捉えているの?
感情も感覚も移ろうもので
肉体も老いていく
確実なものなど
ひとつもないこの世界で
一体何を「自分」と思えばいいの
と、わたくしの十八番
思考のアリジゴクに自らハマりに行く
という遊びに突入します
(答えの出ない問いを
敢えて考えるのが趣味です)
そんな不確実なくせに、
やたらと密着した相手に
好き嫌いなんて感じていたら、
身が持たないじゃないですか
逆説的には
それだけ不確実な存在に
好き嫌いを感じてたら
そりゃ、苦しくもなりますよね
という気がしてる
私は、苦手な人、嫌いな他者とは
「距離をとる」という対処を
オススメしています
近すぎるから苦しくなる
近すぎるから悪いところばかり
目が行ってしまう
親がうざいと思ってても
ひとり暮らししてみると
親のありがたみが分かったり
するのに似ています
ですので、
自分が嫌いという方にも
心理的な距離をとってみることを
オススメします
心理的な距離
これは、私がコースの中で
最重要項目として、お伝えしている
全ての道はここに通じる
と思ってるくらい大事なこと
所謂「俯瞰して観る」
という方法です
俯瞰できない
というのは、くっつき過ぎなんです
対「人」であれば
くっつくと言うのは
物理的に距離が近い訳ですが
対「自分」
この場合、くっついてるのは
思考や、感情や、体感覚、です
思考や、感情や、体感覚が
「自分」自身である、と考えている
ですが、
思考・認知は変わります
知識や経験が増えたり
新たな環境に移ると
考え方、捉え方も変わります
感情、感覚も移り変わります
さっきまで腹が立って
仕方がなかったのに
好きな人からメールが来て
機嫌が直った、なんてこともあります
その移り変わるものが
「自分」と勘違いしているのは
くっつきすぎ、なのです
ですので、
「自分が嫌い」というのも
好き嫌いという気分に
一喜一憂しているので
しんどいよね、と思います
なので、思考、感情、体感覚を
眺めていられる
あぁ、あなたは今そんな感じね
と、関心を持ちつつも同一化しない
その位の距離感で、
自分と付き合っていけたら
楽なのでは?と思います
私は、自分が大好きか?
と聞かれたら
大好き!ってほどじゃないけど
まぁまぁいいやつだよ
位のモチベーションで答えると思います
すぐサボるし、めんどくさがりだし、
血が上りやすいし、飽きっぽいし、
アカンところはたくさんあります
上げればキリがないくらい
でも、いいところもあるんですよ
誰にだって、好きなところと
嫌いなところはありますよね
パーフェクトに全部好きなんて人いる?
それってちょっと自分に
理想を求めすぎじゃない?
なんて思うんです
その位の客観性で、
自分を眺められる距離感が、
自分を嫌いにならないコツ
なのかなぁと思ってみたりします
好きでもいいし、
嫌いでもいいじゃん、と
多面的に捉えることができる距離
そして、
それが出来ない、難しいならば
それは、あなたのお母さんとの距離が
近すぎるのかもしれないね、と
思ってみたりもするのです
(いきなり核心)
「自分が嫌い」そこに
とても強く反応するならば、
あなたに「嫌われた傷」が
あるからなのだろうと、想像します
多分、生まれたばかりの赤ちゃんは
自分が嫌いとは思っていません
1歳ではどうでしょう?
2歳では?
多分、
自分が自分の事を嫌うより前に
誰かに嫌われたと感じる方が
先なのではないでしょうか?
そして、その誰かは
親(養育者)である可能性が
とても高いですよね
周りの誰に嫌われても
自分は、自分の事を好きでいていい
その許可は、
親の呪縛から解き放たれて
得られるのかもしれません
同じお悩みをお持ちの方
セッションでひも解いていきましょうね
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