今日は、夜に入っていたセッションを、雪のため延期しました
私は札幌育ちなので、雪(程度)で電車が止まるとか、意味分かりませんと思っていたクチなのですが、止まるものは止まるんだよね
自然には適いませんのでね、何事も無理せず、柔らかく過ごしたいなと思っています
さて、このお正月、私にしては珍しい買い物をしました
アンティークなのですが、とても美しく気品高い時計です
正直、ちょっとハードルの高いお値段
古くていつ止まるかわからない、しかも数年に一度メンテナンスが必要で、そのメンテナンス費用で、新しいちょっといい時計が買えてしまいます
今までの私だったなら確実に「ムダ」「低コスパ」「役立たず」と、買わないだろうし、そもそもその時計に魅力すら感じてなかったはず、それなのにそれなのに
本当に欲しいのかな..
止まっちゃったらやだな..
たかが時計なのに..
贅沢すぎるよな..
思考をぐるぐる回しながら「諦める」と「欲しい」のはざまで揺れながら、うっすらと悩み続けていました
ががが
あるタイミングで
「うわぁぁ、欲しい!!」
突然、身体の奥底から「欲しい!」という気持ちが湧いてきてしまいました(あぁ..)
例え、止まってしまったとしても、欲しい
と同時に私は、この「欲しい」禁止してきたんだ!という事にも気が付きました
色々欲しいものを手に入れてきたつもりではいたけれど、会社員だった頃の「自分で稼いでるんだから何に使ったっていいでしょ!?」という若干やさぐれた物欲は、見栄やトロフィー的な意味合いなどが混じっていて、純粋にそれに憧れて欲しいと感じていたかというと、そうではなかったのかもしれません
そして「モノ」には大抵「機能」という役割があって、私はどちらかというと、シンプルに機能を果たしてくれる、シンプルなデザインの「モノ」の方が好きでした
洋服ならば、着脱が楽で体温の調節がしやすいもの
靴ならば、適切に足をホールドして、歩いて楽なもの
バッグならば、A4のノートが入り、軽くて水濡れに強いもの
いわゆる「便利」なものが好きなわけです
でも、その奥に「ムダ」に対する禁止や、「贅沢」に対する禁止があったことは否めません
そして、そこに深い諦めがありました
本当に欲しいものは手に入らない
心の奥から欲しいものは得られない
そんな諦めです
高校時代の私は、ちょっと個性的な時計が好きでした
札幌には4丁目プラザというファッションビルがあるのですが、当時そこの7階に、古着やハンドメイドやオリジナルのアクセサリー、軍払い下げのアメカジ屋さんなどに紛れてキッチュでかわいい時計を扱っているお店がありました(と今ググったら4PLA閉店って出てて悲しくなった..)
学生の頃までは、好きなものと買えるものが一致していたのだけれど、年齢を重ねるほど、欲しいものの桁は上がっていきます
時計のデザインは、相変わらず好きなのだけど、段々と美しいと感じるモノの値段が上がっていき、気が付いたら年収でも買えないような時計が目に入ってくるようになりました
そしていつしか、自分には手に入らないだろう膨大な美しいものが、世の中にあるんだなーと軽く絶望して、欲しいという気持ちを諦めてしまったようでした
そうかー、手に入らないって思ってたねー
私になんて無理って思ってたねー
「欲しい」を諦めてしまった自分だったから、あの鮮烈な 「うわぁぁ、欲しい!!」 という体感が感じられたことが、一番嬉しかったんですよね
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