「私、素直じゃないから、
謝れないんです~」
ランチのアボカドバーガーに
かぶりつく私の耳に
そんな言葉が飛び込んで来た
私は思わず
口をあんぐりと開けたまま
その人を凝視した
「ピーターセテラかよ」(本家↓)
邦題がね「素直になれなくて」
直訳すると「ごめんと言うのが難しい」
この位、動詞が明瞭だと語弊が少ない
日本語の優しい表現は
時に具体性に欠けるから
悩みがぼんやりしてしまうことがある
悩みがぼんやりするということは、
解決が遠い、と同じ意味
だから、
悩みを解決したいなら
具体的な言語に
落とし込むことが大事なの
その場所から
本気で抜け出したい
と思っているなら
試してみる価値はあるよ
素直になれない、よりは
謝ることができない、
の方が具体的だから、解決しやすい
そして、
「素直さ」という性質性格と
「あやまれない(謝罪ができない)」
という行動には
実は、全く関係性がないのよ
素直=謝れる
わけではない
全素直な性格の方が
どんな状況でも謝るか?
と考えると、
検討できる状況ならば
自分に不利益がある時には
謝らない選択をするだろうし
逆に性格のねじくれた私だって
例え、どれほど私に非が無く
謝る必要がない状況、
だったとしても
話を早く終わらせたい
無駄な労力をかけたくない
謝っといた方が先々が有利
などと損得勘定が働いたら…
謝るよねぇ
つまり
「謝れない」ではないの
「謝りたくない」のよ
割と私たちは
「やれない」「出来ない」
のように
自分では対処しようのない
なにか外的な理由によって
自らの意思と異なる行動を
止む無く取っている
かのような言い方をする時がある
これは、防衛でね
自分の責任を逃れ(ようとし)ているだけ
だったりする
「謝りたくない」というと
あまりにも可愛げがないので
素直じゃない、と柔らかく
言いつくろっているだけなのよ
そして私は、
損得勘定や責任逃れが、
悪いなんて、ちっとも思ってない
そんなこと、誰でもやってる
当然ながら、私もやってるし
叱られた2歳児だってやってる
だって、
防衛しなきゃ損すること
痛い目見る事も、
たくさんあるものね
この3次元の地球ってところはさ
だから、当然
自分を守ることを
最優先していい、と思ってる
ただ、それを
自覚があってやっているのと
本当にそうなのだと思い込んで
無自覚にやっているのでは
全然違う
何が違うって
「生きやすさ」が
自分の本心を隠すことに
無自覚に慣れ切ってしまうと
恐ろしい事に、私たちは
本心が分からなくなってしまう
そうすると、やりたい事も
自分を喜ばせることも
何がイヤで何が好きかも
「自分」に関することが
全然わからなくなって
ロボットみたいな人になってしまう
(過去の私のように)
そんなんじゃ、
生きてる意味が、
感じられなくなっちゃうよね
だからまず
自動運転に気が付く事が大事
(だけどこれが結構難しい)
そして、
「謝りたくない」には
ちゃんと理由がある
その人により、
どんな記憶があるかは
異なるのだけど
「謝る」ってことは
自分に(も)非があると
認める事だから
「謝る」「非を認める」
行為に痛みの記憶が
あるのだろうなと想像する
セッションだと、
この位対話していくと
なんとなく関連する出来事が
思い出されてくる方が多いよ
痛いから避けてるんだな、と
まずは、そんな風に考えてみて
そうするとね
「素直じゃない人」なんて
居ないことに気が付く
理由があってこうなってるんだな
と、自分を見て上げるのも大事
手負いのまま
生きていくのはしんどいこと
だからまず、
「素直じゃない私」と
自分を評するのではなく
素直でいるには過酷過ぎたのだと
客観的に自分の過去を
労って上げられるといいよね、
って彼女に伝えて上げる人が
誰か、居たならいいな
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