お友達のセッションを受けてから
幼い頃の記憶が浮かび上がってきていて
それらを丁寧に扱う日々でした
3歳の頃、両親と離れて
親戚の家に引き取られたこと
深夜に目が覚めると誰もいなくて
悲しくて怖くて、一人ぼっちで泣いていたこと
保育園で、しつけのためと
暗いトイレに閉じ込められたこと
猫が、4階の部屋から飛び降りて、大怪我をしたこと
スキー場で骨折した母が、
救急のソリに乗せられて下山してきたこと
一応その記憶はあるのだけど
今までは、実感を伴った記憶ではなく
客観的な事実としての記憶でした
だから、どこか映画を見ているような
他人事のような感覚がありました
今回は、
それが実感の伴う恐怖感の再現や
悲しみの再現が伴って現れてきています
当時は、受け止めきれない程辛くて
凍結する他なかった、そんな出来事を
少しづつ解凍している、そんな感じです
こうして考えると私は、圧倒的に
思考の枠を定義する方法より以前に
体感覚の凍結という方法を
生存戦略としてやってきたのです
簡単に言うと
固まったり見なかったことにしたりして
その場をやり過ごして来たわけです
その「固まる」フリーズして
困難をやり過ごすという手法を
その後の人生で、
繰り返し使ってきたようです
そうするとどうなるかというと
「感じない」ひとになります
悲しいこと、怖いこと、寂しいこと
それらを感じないようにフリーズすると
自動的に、楽しいこと、嬉しいことも
感じることが難しくなってしまいます
感覚・感情は、ひとつだけ凍結する
というのは難しいみたいです
その副作用として私は、
どうにも生きている実感がなくて
嬉しいとか、楽しいとかの実感が薄くて
ぼんやりとした、
感動の薄い人生の前半を、
過ごすこととなりました
そのため自分は、鈍い人間だし
人の気持ちがわからないし共感出来ないし、
人も自分も大事に扱うことができない
と思っていたのですが
これが、ビリーフを外し
体のケアをしていくことで
実はそれが逆であったということに
気がついたのです
実は、感受性が高い方だったのです
身体の感性を開いていくと
最初は、しんどいことが増えました
車の通り過ぎる音が怖い
日差しが眩しくて涙が止まらない
隣の人の臭いで鼻水が止まらない
基本的に、なにか液体が
ダダ漏れてる状態になります
でも逆に、セッションなどでは
感情を細かく受け取れるので
より詳細に共感していくことが
できるようになりました
私が「HSP」ハイリーセンシティブ
繊細な人という表現を知ったのは
2017年の夏頃、この本のおかげでした
この本に出会ったことで
自分が困っているこの症状が
なんなのかがわかったのと同時に
自分が繊細である
(最近は、繊細さん、という呼び方も
目にするようになりました)
という自覚ができたのです
あぁ、自分はこれなんだと、
ホッとして当時受講していた講座
(ビリーフリセット・カウンセリング講座)で
プレゼンしたことを覚えています
なににせよ、自己理解できると
安心するものなんですね
ちょっと長くなるので続きます
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