「こだわり」がある、というと良い意味に捉えがちな私ですが、これによって苦しいのなら、ビリーフであるという見方ができます
「こだわる」辞書で引くと、こんな風に説明される
こだわりとは
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ひとつのことについて強く思い入れたり、執着したりすること
どうしても「こだわりたい」
でも、その「こだわり」によって、しんどいのが自分なら、それは自分自身の「声」ではない可能性が高いよ
なぜなら
「〇〇でなければ!」というこだわりの裏には、「〇〇でない私」がいる
〇〇=正しい、が法則なので、〇〇≠間違いだしアカンよね、という法則で思考している
「〇〇でない私」はアカンから「〇〇でなければ!」を義務とする
「〇〇でなければ!」が苦しいわけでなく、「〇〇でない私」が、ほんとの苦しい原因で、なんでそのビリーフを作ったかというと、「〇〇でない私(私=間違いだしアカン)」と刻んだその時に、傷つきの体験があるから
〇〇でなければ、こうあるべきだ、これらの思考はビリーフである可能性が高い
「べき」「ねば」あるところにはビリーフがあり、ビリーフがあるところには、傷つきの体験が隠されている
そう、傷つきの体験が、その「こだわり(執着)」を作っている
では、「〇〇でない私」は、本当に間違いだしアカンのですか?
「〇〇でない私」に困るのは、本当は誰ですか?
ってあたりを見つけていくのが、ビリーフリセットだったりします
別に、楽しく心地よいことだけが良いわけでもないし、自分のやりたい!したい!を追求していくと、その道のりは決して楽しいだけじゃない
そこにこだわりが必要なこともたくさんあるし、そのこだわりがモチベーションになっていくこともある
だから、自分発の「こだわり」は、とても大事なその人のアイデンティティであり、やる気の元だと思う
自分の本心からやりたいことであれば、モチベーションが自分軸だから、やらされてる感がないし、自分でコントロールできる(できないタイプの方はまた別の問題ね)
だから例え、しんどいことや、つらいことがあったとしても、自分で納得し受け止めて、やる決断ができるし、いざとなればやめるという決断もできる
この、自分で決められる、自分はできると思える、というのが大事
自分で決められる「こだわり」か、やらされてる「こだわり」か
もし自分で決められない「こだわり」ならば、それ辞めてもいいんだよ
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