「仕方ない」のその先へ

五感・感性・感情

自宅にテレビはないし、ラジオもつけないので、能動的にニュースを取りに行かない限り、世界情勢はあまり入ってこないし、Twitterには上がってくるけど、見る時間がない私に、夫さんはたまに気になったニュースを送ってきてくれる

「阿蘇山が噴火しそう」
「ウクライナで戦争が勃発」

その中で彼の使っていた言葉に、なんとなく不穏な響きを感じ取った私は、
「そうなの、でも仕方ない」
と返信した

セッションという限られた場ではあっても、年間百人近くの方と深いお話をしていて、気が付いたことのひとつに「自分ではどうしようもない大きな現実に、打ちひしがれてしまう人」がいるということだ

例えば、食べるものに恵まれない子どもがいる、戦争で苦しむ人がいる、人の手で絶滅に追いやられていく動物がいる、汚れた海で死にゆく種がある..

そういう問題を考えることは大事、そう考える人もいるだろうし、私もある部分では同感だ
視座を高くとることは、それだけ広い視点で物事を見られるという事だし、捉え方は固定しない方がいい

環境や地球のことを自分のことのように重要に捉えられる人が、増えたということは、それだけ私たちが飢えや戦争に脅かされない生活をしているということだ
私たちは、自分の安全が確保されない限り、他者に優しくはなれない

そして、その地球という大きな問題が、自分の人生に大きな影響を及ぼし、その問題に関わっていくことが、自分の人生に大切なことだと捉え、行動に移す人もいるだろう

それは素晴らしい事だと思うし、素直に尊敬する
そういう人を目にすると、そうありたいと願う自分もいるし、私が太刀打ちできる問題ではないと考える自分もいる

でもそこで何か大きな事件が起こった時に、戦争を嘆いたり、人の行いを憂えたり、政治に怒りを向けたり、自分の非力さを責めたりして、感情をそちらに引っ張られる選択をしなくてもいいんだよ(いや、したければしても、もちろんいいのだけれど)

その共感力の高さと優しさは、あなたの美点かもしれない
それを否定するわけではないし、その美点を美点のまま活かして頂きたいと願う
だからこそ、あなたはあなたの日常を優先していいし、今の安全や心地よさを満喫していい

いいんだよ
あなたは、あなたとして、地に足をつけ日々暮らし、あなたの幸せを追求していい

私は、両親が住む奄美大島の美しい嘉徳浜(かとくはま)が埋め立てられつつあるという記事を横目で見ながらも、晩御飯をなににしようか、何時まで仕事をして買い出しに行こうかなどと考える

それは、私にできることなどわずかなことと、無力感に自分を明け渡し、降伏しているわけではなくて、今の私にはそれが最善と思うから

私にできること、私のやりたいこと、私の目指す世界、私の大事にしている時間、誰と過ごしたいか、どう生きたいか、諸々を机の上に一斉に書き出し検討してみた上で、私は日々粛々と、手をつなげる範囲の人たちと一緒に、自分に出来ることを積み重ねていこうと思う

ただ、私は私の「身体」と「感情」に忠実であろうと努力している
もちろん、わーっと誰かの感情が流れ込んできたり、誰かの悲しみに同調してしまったりもするのだけれど、その現象は「自分が招いている」もしくは「許可している」ということに「気が付いて」いようと努めている

それはいわゆる「境界線」の話なんだけれども、自分だけではどうにもならない外側の一部を嘆くより、自分の内側にしっかり意識を根ざして、私が出来ることに集中していた方が、結果的に世界は良くなっていくと考えている

「そうなの、でも仕方ない」
一旦諦めたところから、自分が何を見たいか、どんな世界にしたいか、そのために何が今できるのか、に意識を向け行動する方が、ニュースに憤りを向けるより、ずっと私のやりたいことに近い気がしている

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