「親ガチャ」けしからん?

ビリーフ、思い込み、価値観、観念

最近会った知人3名が「親ガチャ」の話をしたので、なんとなく引っかかった方が多かったのだなと感じている(友人、知人と会う機会が少ないので、3名って中々打率が良い)

「親ガチャ」という言葉を表出する時、それぞれにそれぞれの、思いというか、記憶というか、背景みたないな印象が透けて見えた、それらはすべて違う印象だったにも拘らず、3名とも
「それはそれとして、人生ってそこからじゃない?」
という意味の、似た言葉を用いたことが興味を惹いた

「親ガチャ」的確だなと私は思う
子は親を選べない、それは事実(そして逆も真なり、親も子を選べない)
子は親を選んでくるという考え方もあるけど、それはまた別の哲学や宗教(人はどう生きるべきか)の話だと捉えている

親が選べないどころではない
どんな肉体を持ち、どんな性質で、どんなDNAで、どんな顔で、どのくらいの身長で、足の長さで、と、私たちって面白いほど、「自分」であるものを、何一つ自分で選ぶことなく、この世に生まれてきている、これがガチャでなくてなんなのか

そして、親を選べないということは、育つ土地も環境も選べない
寒い土地なのか、暑い土地なのか、砂漠なのか、山岳地なのか、田舎なのか、都会なのか、国も時代も、収入も、文化も、いや書いていて笑えて来たけど、ほんとにガチャなんだねぇ

自分自身のことも、周りの環境も、何一つ選べないのに、あんな放置されたら死んじゃうような、なにもできない小さな身体で、まさに裸一貫で生まれてきたんだねぇ、勇気あるねぇ、みんな

と、私は「親ガチャ」至極納得しているんだけれど、なんでそんなに非難されているの?

それは、責められたくない「親(感覚)」の方なんだろうな
これも、罪悪ビリーフのひとつであるような気がしているんだけれど、要するに非難する側の方は「私は悪くない!」って言いたいんだよね

感情的に反応しているからには、理由があって
そこには必ずビリーフがある

そして、前述の知人3名が
「それはそれとして、人生ってそこからじゃない?」
と言うのも本当にその通りで
「自分はこれが現状というところを認める」というフェーズはやっぱり必要で、そこを受け入れられないと、本当の意味で自分の人生を始められない

「親ガチャ」って、親の支配下から脱したい子には、必要な考え方だと思うのよ
外れでも当たりでも、そこから自分の人生に舵を切っていくためにはね

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